1779年スイスに生まれ、スイス、フランス、ロシアの各軍で主に幕僚・軍事顧問として活躍したアントワーヌ・アンリ・ジョミニ。
彼の名は同時代の代表的なドイツの兵学者であったクラウゼヴィッツと比べても、現在知られているとはいえない。
これは、本書の訳者である佐藤徳太郎氏が指摘しているように、早くから生国を捨て、さらに斜陽の時代のナポレオンと複雑な要因があったとはいえ決別し、その挙げ句に経歴的にはもっとも長期間服務した帝政ロシアが結局は歴史の舞台から霧消してしまったからなのだろうか。
本論は1838年、ジョミニ59歳のときに書かれたものであり、ジョミニ兵学の総決算ともいうべきものである。
ジョミニの語る必勝理論は18世紀のプロイセン・フリードリヒ大王の戦史を根拠としていたことは本論の各所に表されており、ナポレオンの幕僚だった当事にはその理論をそのまま提言したとされている。しかし、本論を書いた19世紀は、17・18世紀とはまったく異なる時代であった。
その一つはフランス革命とそれに伴う大戦争によって、君主の傭兵による戦争から民衆自身の軍隊による戦争に代わっていったこと、もう一つが銃器の進歩によりそれを取り扱うのに特別の技能も長期の訓練も必要なくなったことである。
しかしジョミニは、いつの時代であれ戦勝を得るための基礎的原理は必ず実在していると述べ、学理を研究し、システムを打ち立て、天才将軍には及ばないまでも、これを補充する次期将軍以下を養成すべきとしており、その学理研究のために本書は著されたのである。
ちなみに、本書巻末に訳者による長文の解説があるので、この時代の西洋史、戦史等を熟知していない人には、この部分を先に読むことをお薦めしたい。
時代背景や人間関係がすっきりと理解でき、ジョミニの理論解釈に非常に役立つからである。(杉本治人)
『作者介紹』
ジョミニ,アントワーヌ・アンリ (ジョミニ,アントワーヌアンリ)
スイスのボー県に生まれ。19歳でスイス軍入隊。
1804年に著した『大軍作戦論』がフランスのネイ将軍に認められ、翌05年私設副官として仏軍入隊。のちナポレオンに見いだされて皇帝側近の幕僚となり、数々の重要な作戦計画に関わる。
モスクワ遠征後の14年、仏軍を去りロシアに投ず。
露軍ではアレクサンドル1世以下代々の皇帝の軍事顧問を務め、作戦立案や士官養成に貢献する。1779‐1869
佐藤 徳太郎 (サトウ トクタロウ)
1909年(明治42年)仙台生まれ。陸軍大学校卒。
陸軍参謀本部部員、現地軍参謀、陸軍大学校兵学教官、陸軍教育総監部課員を経て終戦。
1952年自衛隊発足とともに入隊。
陸上自衛隊北部方面総監部幕僚長、幹部学校副校長、第六管区副総監を経て退官。陸将補。
1961年から74年まで防衛大学校教官。
2001年(平成13年)没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
彼の名は同時代の代表的なドイツの兵学者であったクラウゼヴィッツと比べても、現在知られているとはいえない。
これは、本書の訳者である佐藤徳太郎氏が指摘しているように、早くから生国を捨て、さらに斜陽の時代のナポレオンと複雑な要因があったとはいえ決別し、その挙げ句に経歴的にはもっとも長期間服務した帝政ロシアが結局は歴史の舞台から霧消してしまったからなのだろうか。
本論は1838年、ジョミニ59歳のときに書かれたものであり、ジョミニ兵学の総決算ともいうべきものである。
ジョミニの語る必勝理論は18世紀のプロイセン・フリードリヒ大王の戦史を根拠としていたことは本論の各所に表されており、ナポレオンの幕僚だった当事にはその理論をそのまま提言したとされている。しかし、本論を書いた19世紀は、17・18世紀とはまったく異なる時代であった。
その一つはフランス革命とそれに伴う大戦争によって、君主の傭兵による戦争から民衆自身の軍隊による戦争に代わっていったこと、もう一つが銃器の進歩によりそれを取り扱うのに特別の技能も長期の訓練も必要なくなったことである。
しかしジョミニは、いつの時代であれ戦勝を得るための基礎的原理は必ず実在していると述べ、学理を研究し、システムを打ち立て、天才将軍には及ばないまでも、これを補充する次期将軍以下を養成すべきとしており、その学理研究のために本書は著されたのである。
ちなみに、本書巻末に訳者による長文の解説があるので、この時代の西洋史、戦史等を熟知していない人には、この部分を先に読むことをお薦めしたい。
時代背景や人間関係がすっきりと理解でき、ジョミニの理論解釈に非常に役立つからである。(杉本治人)
『作者介紹』
ジョミニ,アントワーヌ・アンリ (ジョミニ,アントワーヌアンリ)
スイスのボー県に生まれ。19歳でスイス軍入隊。
1804年に著した『大軍作戦論』がフランスのネイ将軍に認められ、翌05年私設副官として仏軍入隊。のちナポレオンに見いだされて皇帝側近の幕僚となり、数々の重要な作戦計画に関わる。
モスクワ遠征後の14年、仏軍を去りロシアに投ず。
露軍ではアレクサンドル1世以下代々の皇帝の軍事顧問を務め、作戦立案や士官養成に貢献する。1779‐1869
佐藤 徳太郎 (サトウ トクタロウ)
1909年(明治42年)仙台生まれ。陸軍大学校卒。
陸軍参謀本部部員、現地軍参謀、陸軍大学校兵学教官、陸軍教育総監部課員を経て終戦。
1952年自衛隊発足とともに入隊。
陸上自衛隊北部方面総監部幕僚長、幹部学校副校長、第六管区副総監を経て退官。陸将補。
1961年から74年まで防衛大学校教官。
2001年(平成13年)没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)